渡辺直喜

博多祇園山笠を見物

 7/15(金)5:00 福岡市博多区の承天寺前で3年ぶりに開かれた博多祇園山笠を見物した。櫛田神社を出発した8台の山笠が男たちに引かれ5㌔町内を駆け巡る。それに私たちが拍手、水を掛けた。

 静岡市商工会議所主催のこの旅行会は、1年前会議所の便所を借りるつもりで入ったら「聖一国師の会」のチラシがあり早速入会した。会の最大のイベントが博多祇園山笠の見物訪問だ。

 昔、博多で疫病が流行り苦しみの中にいた人々に、宋帰りで承天寺を開いた聖一国師が聖水を撒くことで疫病を鎮めた―ことが博多祇園山笠発祥とされている。

 聖一国師は静岡県出身でその子孫の米沢家を中心として祈年の会が毎年開かれている。その会に何の縁もない私が飛び入り参加した。

 25人の集団だから筥崎八幡宮では宮司のお祓いを受け、承天寺では住職のお経、話も聞けた。周りは皆知らない人ばかり。こういう未知の会に飛び込んでの行事は神社仏閣の奥まで入れるから面白い。

 祇園山笠が再開されて人々が活気づいているのが分かった。毎年7/15の早朝1日だけの山の引き回しだが人々の気持ちが華やいでいるのだ。隣に立っている老人に「大人に混じって走っている子供たちが可愛い」と言ったら延々20分山笠の説明をしてくれた。

 「女の子は小学生まで参加できる。だけど高学年で締め込みは生々しすぎる。走っているのはせいぜい3年生ぐらいまでだ」「そりゃそうだろう。ワッハッハ」と私。

人脈拡大法はチラシが多い

 公共施設などに行くと催し物のチラシを持ってくる。参加して面白ければその団体に入る。この動作が私が新しい会に入るきっかけとして1番多い。

 私は岐阜県美濃市出身の講談師神田京子のファンだ。5年前JR王子駅前の北区の施設で京子と俗曲師の2人会があり入口に俗曲師が主催する会のチラシがあった。上手い三味線と品のいい芸に早速会に入った。以降年4回開かれる旅行会・公演には皆勤だ。旅行会は俗曲師出身地の倉敷市周辺が多い。面白い会に入ったものだ。

 チラシの効用を知った私は印刷会社と段ボール製箱会社で18種ほど作り、営業が配っている。営業がホントに配っているのか疑わしい。こちらのチラシ効果はダメだ。営業にチラシを提供しても「猫に小判」である。それでも私は「飛び込み新規開拓はチラシ配布数がポイント」と思っている。例え当社の営業が、猫であっても小判を供給し続ける。

 俗曲師は桧山うめ吉という。

使い勝手悪いメガバンク

 200万円を他行に振り込んでもらおうと三菱銀行目黒支店に行った。「窓口は予約制だから、入口でまず予約を取ってくれ」という。驚いた。歯医者じゃあるまいし。

 来店客の要望は千差万別だろうから窓口が聞き取って片っ端から完了させるのが1番効率いいはずだ。更に入口のおばさんが「ご用件は」「ご本人様ですか」などと聞いてくる。応えるのも馬鹿馬鹿しい。メガバンク窓口はすべて予約制という。

 結論は、ATMコーナー以外の用件は、客の少ない○〇信用組合、信用金庫、地銀に行く―だ。予約もないし窓口がサッサとやってくれる。当社の総務課員が大崎駅前の東日本銀行を使っている理由が分かった。東日本銀行は元水戸市の無尽株式会社だ。効率UPのためなら不便さをウダウダ口にするより、次の手を実行した方が問題解決が早い。

早雲寺殿廿一箇条

 歴史番組を見て小田原の北条5代の始祖・北条早雲(1456-1516)の21か条があるのを知った。条文が分かりやすく私の胸に響くものばかりだ。

2条 朝は早く起きろ

14条 嘘をつくな

18条 友は良く選べ

20条 火元は自分で確認せよ

 誰もがやらなければいけないことで、1人の人間が生きていく上での基本中の基本である。早雲は21か条を守って相模の国を取った。中小企業の高齢社長も所詮は自分でやるべきことをやらないと末路は飛んでもないことになる。

 自分で現場に行き、手を汚して学ぶ。アイデアは自分で出して組織を筋肉質にする。これらをやるのが「面白い」と思えば高齢でも中小企業の社長を長いことやって行ける。

 何でもやってくれる家老の三太夫に任せっきりであればその先は奈落の底である。早雲は21か条通り独楽(こま)(ねずみ)のように動き回ったはずだ。

パリ祭を見た

 渋谷Bunkamuraオーチャードホールで開かれた第60回パリ祭を7/7見た。60人のシャンソン歌手が「ようやく開かれた花舞台」とばかりに次々に熱唱した。

 出演した老女歌手が切符を買っておいてくれた指定席は1階22列の真ん中で、満席なのにたまたま両側が空いていてゆったりと座った。「これはいい席だ」と思った。

 主役のゲストは鳳蘭、司会は山本リンダ。菅原洋一がやっと歩いての登場が印象的だった。

 観客は着飾った老女が多く「オーチャードまでパリ祭を見に行こう」という意欲のある人たちだ。その顔を見ていると気持ちがいい。人は意欲で動くものだ。対象は何でもいい。自分の足で歩いてそこまで行けば100%健康である.

毎月の損益表と試算表

 2つの表が当社の締め日(20日)から2週後に出来上がってくる。

損益表=全社・課毎の月と累計の損益を表で表したもの。管理会計の重要なデータである。総務課員が作る。

試算表=会計事務所で作る。貸借対照表(資産の部と負債の部)、損益計算書の累計が出ている。当社ではこれを月次試算表と呼んでいる。

 2つを見ると前月と今期の特徴が分かる。マイナス項目があれば当日中に手を打つ。プラス項目は放っておく。これがスリルとサスペンスで結構面白い。

 3月の損益表で印刷課が赤字すれすれになった。「改善への展望が見えない」という理由で課長が交代した。課長職も命懸けだ。ルールだから仕方がない。

 2表を見ているだけで現実が分かる。高齢社長の精神安定剤だ。

業界誌・紙を取る

 月刊誌「印刷情報」=㈱印刷出版研究所発行=を取っていたが、担当退職と共に回覧は回ってこなくなった。引き継いだ課長が「購読の契約更新をしていない」という。もったいない。再度復活して回覧を再開した。

 物流月刊誌「ロジスティクス・ビジネス」=㈱ライノス・パブリケーションズ発行=は新しく取り始めた。見本誌を読んだトラックドライバーは「お終いの方に共鳴できる記事があった」と言っている。「こんな頭脳明晰なドライバーがいたのか」と思った。他の社員には猫に小判の月刊誌でも明晰な社員だけでも読んでくれれば取る価値がある。

 私は業界誌・紙には興味を持って目を通している。できれば担当社員は業界の親睦会に入るべきだ。基本スタンスは「外に、外に」である。外部に接触することで学べる。面白いことが山ほどある。そこで業界を研究してもらいたい。

蘭州の麺食べた

 新宿駅西口の蘭州ラーメンの店に入った。蘭州は甘粛省にあり海抜1600mにある。中国中央部に位置し店員はイスラム教徒のかぶるような帽子を頭に載せている。

 西遊記の旅の途中に出てくるような地名に心躍った。16:00「異国情緒ある店で間食できるとはラッキーだ」と思いながら麺料理を注文した。旨くない。若い女店員に「蘭州から来たのか」と聞くと、河南省とか大連市からという。

 それでも蘭州という地名に本日、接することができただけでも私は嬉しい。

銀行機能は調達、運用、決済の3つだけ

 銀行の機能は①調達(借入)②運用(預金)③決済(振込・引き落し)だ。これ以外の機能はない。これを知ったのは1997年49歳の時だった。投資コンサルの講演で「あっ、そうか」と思い、それからはお金に対する考えが180度転換した。巨大なバケモノのような金融機関が私たちの「単なるツール(道具)だ」と考えるようになった。

 例えば1000万円の現金を手にしたら「①②③のどれに使おうか」決める。

①調達(借入)=借入金の返済に充てる

 ②運用(預金)=株か債券、不動産を買う

③決済(振込・引き落し)=会社の当座預金に入れて置く

 この考えを進めて行った結論は「②運用はやらない」―だった。

 新聞の株価欄を見ることもなくなったし、金利の動向も興味は無くなった。毎日の金の支出と収入だけを眺めていればいい生活になった。そして効率UPだけやっていると金は自然と手元に貯まっていくことが分かった。

儲かっている所から学べ

 巣鴨地蔵通り商店街で40半ばで鮮魚の食堂を始めた男がいた。そこで昼食をとったが、料理は旨いがどう見ても儲かりそうもない。1つ1つ改善策を指摘しようとしたら「どうしたら儲かるようになるか」と聞いてきた。

 私は「儲かっている食堂で話を聞くといい。話してくれなければ、行って観察するだけでもいい。自分の目で見るといい」といった。

 店主は「食堂を始めて1年半経つが面白い。ただカツカツだ」といっていた。「人間、好きなことをやるのが1番だ。あとは御自分で工夫してください」と言って店を出た。

スマホで銀行出入額分かる

 スマホで何よりも有難かった機能が私の唯1の通帳のみずほ銀行の出入額が一瞬にして見ることができるようになったことだ。印刷会社全社員が集まって毎日開いている「日銭朝会」で営業社員のスマホ操作ワンポイントレッスンで教えてもらった機能だ。

 私は会社・個人ともに決済行は1行と決めている。出入金が1行で分かれば効率がいい。経理社員は夕方、決済行から送られてくる出入額と残高の紙1枚を見るだけで経理日報を締められる。15行と取引している会社があった。この中10行で決済していたらもう滅茶苦茶だ。「取引先別に通帳を分けた」というが、毎夕10行の出入金表の足し算をしないと残高は出てこない。恐ろしいほどの効率の悪さだ。

 私個人の通帳の入り金は①給料②年金③家賃ぐらいだが、出の方は水道-光熱ほか年会費、JR・ホテルの自動引き落とし分、なかでも税金が複雑だ。

 私には節税という意識は余りない。「お(かみ)が請求してきたら一刻も早く払ってしまう」という主義だ。

今の目標はすべての個人決済を自動入金・引き落としにすることだ。支払先がまだそうなっていないものはないか調査中だ。それがスマホで確認できるようになったのだ。ありがたい。

私の頭の中は効率UPだけ

 高齢社長が仕合わせに過ごすには会社が利益を出していないといけない。売上の大きい小さいは問題ではない。印刷会社の5/20決算の売上は前年比7.2%減だ。経常利益は売上の8%ほど出ているから胸をなでおろしている。社員数、売上が減っても利益さえ出ていればいい。

 利益を出すには効率UPだけやっていればいい。60分でやっているのを30分でできないか。3人でやっている部署を2人にできないか。そんなことばかり考えている。

 要は ①良品を作る ②お客様サービスの品質をほんの少しUPさせて行けばいいーのだ。やるべきことが単純に決まっているので私は迷う必要は無い。

 効率UPになる→すぐやる

  〃  にならない→やらない

 最近のヒットは、段ボール製箱会社の方で、製函機のフレキソインキの噴出ノズルが詰まってどんな洗浄液でもインキカスが取れなかった。アイデアマンの機長(39)がシンナー液に1晩浸けておいたら見事にインキカスは溶けて無くなっていた。

 これでノズルは1晩放っとくだけで綺麗になるし、段ボールフレキソ印刷の品質も大幅に向上した。物凄い効率UPである。

 こんなニュースに接すると高齢社長の寿命は粛々と延びる。

賞与、前年より2週早く支給完了

 6/23夏季賞与支給を完了した。払うものはサッサと払ってしまえーの当社方針に則って今年2022から始めた「公務員より1週早く支給する」という新しい会社習慣だ。

 公務員賞与は、夏は6/30、冬は12/10に支給だ。当社はその1週前だから夏は6/23、冬は12/3支給するルールだ。

 翌6/24私の気分はスッキリしたものである。賞与の件は頭から消えた。次の課題に向かっていく。次は社内報発行だ。私がモタモタしていたので編集作業が1週遅れている。

ひつまぶし食べ放題

 6/21夕、名古屋産業人クラブの講演・懇親会がありその晩、名古屋駅前の三井ガーデンホテル名古屋プレミアム(宿泊代=16,000円、朝食代2,350円)に泊まった。

 朝食にひつまぶしコーナーがあり大きな皿に幅7mmに切られた蒲焼が山と積まれていた。感動した。宿泊施設はその土地の名産を食卓に添えるのが気の利いたサービスだ。滋賀県のホテルでは琵琶湖の小鮎の甘露煮が山と出たことがあった。旨かった。

 小丼にご飯を少々、蒲焼を山と盛って小葱を振掛け、だし汁を小丼すれすれまで入れて一気にかっ込んだ。これを3回やってチェックアウトした。外は雨だったが高齢社長は傘も差さずに元気に市内を歩き回った。

 念のため。当ホテルでは朝食だけでもOK。近くの安ホテルに泊まってここで朝食をとるのも手だ。

夏至より冬至の方が未来ある

 2022.6.21 今日は夏至。昼が1番長い日だ。自転車通勤の私にとって朝夕が明るいと助かる。安全に運転できるからだ。しかし、私は夏至より冬至の方が好きだ。「これから日1日と陽が短くなるより、長くなる方が未来があるから」だ。

 人間なんて言うものは未来が描ければなんとかなる。苦境で水とカップラーメンだけでも生きていける。

 高齢社長にとっての未来とは何か。ビジネスモデルだ。

 従来の印刷営業品目では未来はない。①出版印刷 ②カタログ・パンフレットはダメだろう。未来の無い営業品目ならいくらでも思い付く。

 一方、未来ある品目はなかなか出てこない。今まで「パッケージ、カレンダーをやろう」と意気込んだことがあったが売上は何年経っても増えない。「アッセンブル・梱包発送はいいかもしれない」と今進行中だ。ダメ元でやってみるだけでも価値はある。マーケットが必要としている営業品目は何か。青い鳥を探していれば高齢社長は生きていける。

次々に再開される行事

 小旅行好きの私にとって行事が次々に再開されてきて益々生活が充実してきた。例えば聖一国師顕彰会主催の博多祇園山笠視察会7/14-15、サトウキカク主催のうめ吉と行く宮島・尾道の旅10/21-23。白紙の手帳が予定で埋まっていくのは快感だ。

 手帳を埋めていくコツは ①新しい会に入る ②連絡が来た行事にダボハゼのように食いつき参加する―だ。行った先に初対面の人がいる。その人たちと雑談を交わすのが何よりの御馳走なのだ。

 ある会で70代の老婦人が「私はアメリカのLOWスクールを出て、現地米企業の法律担当を長年やってきた。企業だから違法スレスレの所で戦っていかないといけない。弁護士資格などかえって邪魔だ。イタリア人弁護士は「私は資格を持っていない」と言って仕事をしていた。ともかく勝つことに全力を挙げてきた。40年やってきたが充実したビジネス生活だった」と。私はいつしかその婦人を尊敬の目で見ていた。

 こんな話はめったに聞けるものではない。感動のあまり婦人の名前も聞けず、私の名刺を渡すのも忘れてしまった。

自分から動く組織はありがたい

 埼京線の遅れで足立区の段ボール製箱会社に着いたのは8:40。①8:10課長朝会 ②8:20 3S ③8:30日銭朝会の朝の3行事は終わっていた。

 結局私はどの行事にも参加できず昼前に製箱会社を退出した。1つの組織が自らルールを決めて整然と動いているのに何ら口を挟むべきものはない。高齢社長はますます楽になる。

 私は近くのバス停「環7新田」から都バスで池袋駅手前の大正大学前の「掘割」まで行き、巣鴨地蔵通り商店街を北から南に歩いて下った。途中氷イチゴを食べ、巣鴨庚申塚、とげぬき地蔵尊・高岩寺にお参りして巣鴨駅前の中華料理店でワンタンラーメンを食べ、満腹。

 無料で乗れるシルバーパスで内幸町に出て喫茶店で30分。更に有楽町駅前の洋品店で40分。いずれも1人だけの孤独な散歩で帰宅は19:00。

夏はスイカ

 品川区の北品川本通り商店街の八百福でスイカ2個買った。5L熊本産と4L新潟産だ。計6,000円。八百福のお婆さんは近所に住む富裕層の高額な買い物にとても喜んでリンゴ1個おまけにくれた。

 私はスイカを食べないと夏を越せない体質なのだ。スイカの水が五臓六腑にしみ渡ると、清純な水が体の隅々の汚物を洗い流してくれるような気になる。「ひと夏スイカを思いっ切り食べると風邪ひかない」「スイカを食べた健全な体に健全な精神が宿る」。スイカにまつわる言葉はいくらでも出てくる。

 4Lは4日で食べ終わる。

創業70年のベンチャー

 当社(品川区、印刷業)は2022.6.19で創業70年だ。だからと言って記念行事も何もやらない。古い社歴などは「糞食らえ」だ。何の役にも立たない。役員・社員が古い歴史に縛られてしまう弊害の方が大きい。

 2021.9.1「当社はベンチャーである」宣言をした。ベンチャーとは「新しい技術、新しいアイデアを提案し、お客様の期待を超える感動サービスを提供する会社」だ。一例が、見積り提出時にお客様から指示の無い形状見本を自発的に作って持参するといったプラスαの行動だ。

 よく「老舗の会」「100年企業の集まり」、面白い所では「県市指定文化財所有者の会」がある。集まりがあることはとてもいいことだが、私が本腰を入れて加わる気はない。

 むしろ創業して5年未満のベンチャー若者社長の集まりの方が面白い。そこで「会社は6年続かないと信用されないよ」と私は偉そうなことを言っている。若者ベンチャーが丁と出るか、半と出るか。そんなことはどうでもいい。自己責任だ。ただ「自分で会社をやりたい」という意欲は尊敬する。

 ちなみに1948.3.1生まれのもう1社の足立区の段ボール箱製造会社は創業74年だ。

書体(フォント)は大事

 社名、店名などで読めない文字を見かける。フランス料理店で何語だか分からない店名では2度目が行けない。これは商売として初めから×だ。相手に分かってもらいたい社名、店名が崩し文字、デザイナーの作った奇抜な表記で読めないのでは機能を全く果たしていないことになる。

 社名、店名は相手に読めればいいのだ。これでいつも感心するのは家具の「ニトリ」だ。あの店名は私でも読める。

 当社は1950年代に書家に書いてもらった隷書体の文字を後生大事に名刺の社名に70年間使っていた。要領の悪い会社だ。やっと2年前の2020年、フォント貸与会社の㈱モリサワの新ゴRを選んで社名、HPの文字に使い始めた。線がくっきり出て読み易い書体だからだ。

 モリサワには1,500種のフォントがある。全部を使える38,880円×マッキントシュ10台=388,800円をライセンス料として当社は毎年モリサワに払っている。デザイナーは「モリサワを使わないとデザインできない」という。書体の費用は惜しくはない。デザイナー需要のほかに分かりやすい書体は当社が皆さんに分かってもらえるための大事なツールだからだ。

安ベルトは心を引き締める

 赤羽駅北改札口通路で革製品の出張販売をやっていた。爺さん売子が「これは縫いがしっかりしているチドリだよ」「チドリがどうした」「ベルトメーカーじゃブランドだよ。お客さんならロングサイズじゃなくてもいい」と言って胴回り95㎝のズボンの上にベルトを巻き付けて採寸した。丁度いい。

 ベルトは穴あきを使っていたがどうも微妙な調節が効かない。20本すべて廃棄。穴無しスーツベルトに替えている。出張販売品はいかにも安そうな気がする。イメージがいい。5本買った。計6,400円。

 そのうち婆さん売子も加わって「これで首を吊らなくて済んだ。良かった、良かった」「俺はあんたがたの命を助けるためにベルトを買ったんじゃないよ。必要だからだ」。

 見ると2人はすでに次の客に行っていた。

 自分に合ったベルトを持てて「高齢の俺はますます快調になる」と思った。

店員に馴(な)れ馴(な)れしくされると嬉しい

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 6/9 昼食に自転車で五反田に行き朝鮮焼肉屋に入った。元は老舗フグ料理屋で焼肉屋が居抜きで営業している。初めて入って中の広さに驚いた。1,000円のホルモンビビンバランチを食べた。味は大したことない。

 暇らしく40ぐらいの男の店員がしきりに私にまとわりついてくる。「どちらからですか」「会社は西品川1丁目だよ」「ご自宅は」「高輪だよ」。高輪と聞いて少し(ひる)んだ。「この店は間借りしているのか」「イヤ、使わせてもらっている」「間借りと同じことだ。間借りと言われるのがイヤか」「そんなことない」。

 支払い後、店の前に止めておいた私の自転車に来て「さすがドイツ製ですね」「中国製だよ」「乗っている人を見れば高価車に見える」「うるせーな。放っておいてくれ」。

 私はニヤニヤしながら焼肉屋を離れた。

借金の心の負担は金利より元金返済

 ゼロゼロ(無利子・無担保=限度6,000万円)融資の返済が2022年6月から本格化するという。金利が1%以下の現在、利子支払いの負担は軽減されている。問題は元金返済だ。

 6,000万円借りて5年返済とすると、月の元金返済は6,000万円÷5年÷12か月=100万円となる。これが津波のように毎月やってくる。高齢社長にとって元金返済がボディブロウのように効いてくる。辛い。

 高額元金返済から逃れる方法はただ1つ。借りないことだ。高齢社長が仕合わせに過ごす方法は旧いものを使い続けることだ。

 当社の平べったい小さな5階建てビルは40年前、築20年の中古物件を買ったものだ。修理・修理で使っているが不便はない。大事な印刷機3台は15年前に買ったものだ。自主保全を毎週機長がやってくれているからいずれも高品質の印刷物を生産している。

同業者との雑談に目輝かす

 6/7 印刷機械メーカー主催のゴルフ会(参加20社)に出た。指折り数えて楽しみにしていた会だ。目当ては同業の印刷業者と雑談することだ。

 雑談の手法は

①自分の悪い情報を話す。例えば「売上が3%下がった」「営業求人を出しているが応募がない」。「転ぶことが多くなった。階段では必ず手摺りに掴まっている」。すべて事実だ。

②相手の会社・自宅住所、主な営業品目、基幹設備など聞く。これは自分のことを開示してからの質問だ。根掘り葉掘り聞くので嫌がられることもあるが、ポイントは深く追及しないことだ。

 多くの人は正直に応えてくれる。これがまた私の快感なのだ。

罰金を隠そうとする報奨担当

 当社21人の営業部員のうち3人が下期(2021.11.21-2022.5.20)お客様新規獲得ゼロだった。規定通り半期新規ゼロ罰金1万円を払うことになる。

 ところが報奨金集計表に罰金の項がない。報奨担当は「表には載せなかったが、給料から1万円は差し引く」と言っている。これはいけません。賞を明示しているので罰も明らかにしなければいけない。「信賞必罰」と「開示」は企業が大事にしなければいけない原理原則だ。企業集計の公明正大さはスポーツの世界の単純明快さと同質のものだ。

 ちなみに5月の営業・工場の報奨金総額は803,655円、罰金は30,000円だった。報奨金の集計表に計30,000円の罰金の項を入れて報奨担当は全社員にメール再配信した。

背骨を真っ直ぐ立てろ

 高齢者同世代が「目が痛い」だの「ケツが痛い」だのうるさい。すべての原因は姿勢が悪いからだ。背骨を真っ直ぐ立てて正面を向いて歩いていれば問題は発生しない―と私は思っている。

 それでも私自身は、顎が出て、前かがみになり、肩も一方が下がったままみっともなく歩いていることが多い。矯正はショーウインドウだ。正面・側面を映して姿勢を正すようにしている。簡単に言えば踏ん反り返っていれば合格だ。他から見れば「横柄な態度」かもしれないが自分の健康の方が大事だ。

 姿勢の悪い人を見ると ①背骨を立てろ ②踏ん反り返れ―という。「大きなお世話」という顔をされるが、本人のためだ。私は使命感を持って忠告している。

 当社検査担当の男社員(58)の姿勢が悪かった。私は横に立って「こういうふうに立って頂戴」と余計なお世話を繰り返した。2年後男社員の姿勢は見事に良くなった。「これで彼の寿命は20年延びた」と思った。

補助金を申請しない

 ここ10年ほど補助金の申請をしていない。コロナ関連補助金もである。

 理由は①リピート入金になるわけではないので申請する意欲が湧かない。②もらっちゃうと気の緩みができそうで怖い―ためだ。

 数千万円の補助金を何回も取っている印刷会社社長が私に教授してくれた。「アノナー、申請書には写真と表を沢山入れて担当者さんが分かりやすくしないといけないよ」。誠に貴重な意見として拝聴はした。

 しかし私には生産設備を買い替えたいという意欲がまるでない。74歳と高齢なせいもある。「新しい機械を買うより、その機械の機長が自主保全の技術を磨いてもらった方がよっぽどありがたい」と思っている。その方がリピート利益になるからだ。

生き延びるコツは蒸かしニンジン

 何故だか蒸かしたニンジンを食べると五体が順調に動く気になる。

 品川区の調査によると「区民の90%が野菜不足。1日の目標摂取量350g食べているのは2.8%」という。

 年を取ったら「野菜だけ食べていれば、何とか生き延びられる」と信じ込んでいるのだが、なかなか量は増えない。とくに1番大事と言われている葉っぱの量が増えない。そこで「ニンジンなら食べ続けられそうだ」と方向修正したわけだ。

 一方、最近ホルモン焼きをしきりに食べるようになった。良薬(ニンジン)を飲んで毒薬(ホルモン)をあおっているようなものだ。

賞与支給日は公務員の1週前

 「払うものはサッサと払ってしまえ」の当社の考え通り今夏の賞与から支給日は公務員の1週前と決めた。夏が6/23、冬が12/3だ。

 賞与支給日は国家公務員が6/30、12/10と決められており、地方公務員はそれに準じている。

 当社の賞与はただ早いだけで額は他社に自慢できるものではない。今回からの支給日繰り上げはただの思い付きだが、経験として「払うものはサッサと払ってしまえ」をやっているとかなり効率UPになる。

 当社の仕入先・外注さんへの支払いは20日締め(10日後の)翌月1日の銀行振り込みをやっている。支払いは終わってしまえば私たちの頭から宿題は消える。次のことに神経が行く。サイト短縮でどれだけ効率UPになっているか。その恩恵を私たちはしみじみと感じている。

2.5万円の社用自転車買う

 旧いボロボロの社用自転車で昼食に出かけた。空気が入っていない、ペダルが重いで前に進まない。品川区百反坂上の堀江サイクルで新車を買った。特別の機能の付いていない1番軽い普通車だ。

 五反田駅前でホルモン焼き定食850円を食べた帰りは快適だった。

 「自転車を買った」ことを言うと社内は喜びの表情に変わった。社員は新車を待ち望んでいたようだ。

 「誰かさんが買ってくれる」のを待っているような会社はダメだ。「必要だ」と思った社員が買って来ればいい。課長は10万円までの即時決裁権を持っている。

「2011東日本大津波」と東日本大震災の名称を変更すべきと私は提案いたします

 理由は、東日本大震災の死者1万5,895人の死因別人数は表1の通りです。津波が原因の溺死が90.64%(14,308体)を占めています。地震によると思われる圧死、損傷死、焼死は5.15%(812体)とわずかです。多くの死者を出した直接の原因は地震ではなく津波です。災害名に津波を入れるべきです。
 災害対策基本法では、災害の種類に「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑り」を挙げています。災害名はこの12種の中から死傷者を1番出した原因の災害名にすべきです。

死因死者数(体)比率
1 溺死14,30890.64%
2 圧死・損傷死・その他6674.23%
3 焼死1450.92%
4 不詳6664.22%
15,786
東日本大震災の死因別死者数 (表1)

忘れ去られた災害にしてはならない

 災害は年月を経るにしたがって人々の記憶から消えていきます。50年、100年先にどれほどの人々の記憶に残るでしょうか。忘れ去られた災害になってしまうことを防ぐためにも発生の年を災害名に入れておいた方がいいと思います。
 津波を災害名に織り込むことで人々の心に水の恐怖として残す必要があります。恐怖の記憶が、また発生するであろう津波で失われる人命の数を減らします。「今度津波が起きたらあそこに逃げよう」と心の準備ができていれば即座に行動に移せます。津波の恐怖の記憶こそが津波再発時に自らの命を守る最大の力になります。

 東日本大震災は発生した2011年(平成23年)3月11日(金)の20日後の4月1日に、政府は持ち回り閣議で災害名称を「東日本大震災」とすることを決定し、菅直人内閣総理大臣が記者会見で発表しました。以降、東日本大震災の名称が一般的に使われています。津波で大きな災害が出たら、まず ①がれきの撤去 ②名称を決め全国民が復旧に力を集中する―手順が言われています。この場合あまり長い名称ですと繰り返し使うにあたって不便です。

 私は2018年10月、東日本大震災の命名の道筋を知りたいため国土交通省外局の気象庁に電話を入れました。係官は「それは総務省の管轄だ」との話に総務省消防庁に電話をしたら「内閣官房で東日本大震災と決めて閣議に上げたはずだ」との回答でした。内閣官房の話では「なにぶん7年前のことで、はっきりしたことは分からない」という回答しかもらえませんでした。私の取材能力ではこれが限界です。ただ言えることは気象庁、消防庁がつけた東日本大震災の名称は「平成23年東北地方太平洋沖地震」であると言明していました。更に「平成23年東北地方太平洋沖地震の名称は今後変更する予定はない」と両庁とも述べていました。これには津波という言葉は入っていません。

 気象庁係官は「気象庁、総務省のつけた災害名と内閣官房のつけた名称は全く別物だ。関連性はない」とのことでした。
 気象庁のホームページに載っている戦後の顕著な65の災害(表2、表3)の名称には津波という文字は昭和35年のチリ地震津波ただ1つしかありません。その他は豪雨、豪雪、地震、噴火の災害名がつけられています。津波が使われていない理由を気象庁係官に聞いたところ「地震の中に地震と津波の災害名がワンセットに入っている。○○地震とあれば津波が含まれている」との説明でした。

 さらに「台風も豪雨とワンセットにしている」と。確かに気象庁が名称を定めた気象現象(表3)では沖永良部台風(1977年9月9日)以降は気象庁によって命名された台風はありません。△△豪雨の中に台風が含まれているそうです。「国民にとって最も身近な災害の台風を使わないのはまずいのではないか」と言ったら「確かにその通りで、2018年8月から災害名に台風を使うようになった」と係官。「そうであるなら最も多くの死者を出す可能性のある津波は地震から分離して明確な災害名として使うべきではないか」と私が言うと「そういうご意見もあったことを伝えておく」係官で話は終わりました。
 日本は世界でも指折りの津波多発国です。TUNAMIは世界共通用語になっています。日本はじめ142か国が提案して2015年12月の第70回国連総会本会議で11月5日を「世界津波の日」として制定されました。11月5日は安政元年(1854年)11月5日に和歌山県で起きた大津波の際に,村人が自らの収穫した稲むらに火をつけることで早期に警報を発し避難させたことにより村民の命を救った「稲むらの火」の物語に由来しています。

 津波を災害名として多用すべきです。地震速報の後に必ず「この地震による津波の心配はありません」「津波注意報」などが出ます。これは日本人が最初の地震よりも2次災害の津波の方に関心があるからです。地震後「津波の心配はありません」をテレビやラジオで知って人々の心配は1件落着です。
 6,434人の死者を出した阪神淡路大震災(1995=平成7年=.1.17)は各報道機関によって関西大震災、神戸大地震などの名称がいち早く使われた後、発生29日目の2月14日に阪神淡路大震災の名称が閣議で了承されました。強震による死者が大部分を占める災害でした。災害対策基本法の12種の災害名の中から大震災ではなくて阪神淡路大地震と命名した方が人々にとって分かりやすい記憶として残るのではないでしょうか。

 東日本大震災8か月後の2011年11月、まだ余震で揺れ続けていた宮城県仙台市で開かれたシンポジウム「1611年慶長奥州地震・津波を読み直す」の発表で蝦名裕一東北大学東北アジア研究センター教育研究支援者の使った表(表4)があります。蝦名支援者は東日本大震災が、未曽有、想定外、1000年に1度と言われていることに「本当に未曾有であったのか」と疑問を呈しています。

 慶長大津波は伊達政宗(1567-1636)が初代藩主として仙台藩を治めていたときに発生した災害です。津波で塩分を含んだ海水が浸み込んだ仙台平野でのコメの生産を一旦は諦めた政宗は意外と早くコメができることを知り、一層コメの生産を奨励し大津波被害をもろに受けた仙台平野を江戸への最大コメ供給地に変貌させました。表4を見ると東北地方を襲った津波の歴史がまざまざと分かります。多くの人々の命を奪った災害は津波です。大震災ではありません。
 50年前私が21歳の頃、仙台市唯一の海水浴場・深沼でのんびり海水浴を何回か楽しみました。仙台平野のクロマツの林の中に氷の旗がひらめき、小さな神社では子供の歓声が聞こえていました。このような風景は東日本大震災直前まであったことでしょう。当時私は慶長大津波のことなど全く知りませんでした。深沼のある仙台市若林区の南隣の名取市閖上(ゆりあげ)出身の私がとてもお世話になった老婦人は「実家の家、親戚、墓もみんな無くなってしまった」とすっかり肩を落としていました。思い返してみてその時私が深沼の津波の現場にいたら、やはり波にのまれ溺死していたでしょう。仙台平野(写真)は行けども行けども平らな田畑が続きます。東日本大震災では海岸線から内陸4㎞まで津波が行きました。沿岸を南北に貫く高速道路、仙台東部道路は周辺より7~10m高い盛土で造られているためここに避難した230人が命を取り留めました。それ以来高速道路が有効な避難場所として注目されるようになりました。

仙台市5行政区の中で1番東南にある若林区の田畑。右は太平洋、海岸上方が深沼海水浴場。左に仙台平野が広がる。左上隅に小さく見えるのが仙台東部道路

 大切な命を守るために

 広大な仙台平野は、所々に高さ20mの土塁を作ってはどうでしょうか。堅牢な鉄骨や鉄筋コンクリートの構造物でもいいでしょう。数千の住民を一時的に収容できる「津波避難場所」と銘打って避難経路を確定して置く必要があります。避難者の長期滞在は必要ありません。津波が引くまでの短い時間を土塁か建造物の上に多くの人が一時避難できればいいのです。土塁か建造物は平時は住民のための利用施設とすれば建設に使うお金は無駄にはなりません。スーパーマーケットの建物でも立派に住民の命を守ってくれます。
 ここで思うことは、第1に津波の過去の事実を繰り返し繰り返し伝える必要性です。第2に津波が来た時の避難場所を決めておくことです。1990年に岩手県田老町で開催された第1回全国沿岸市町村津波サミットで提唱された「津波てんでんこ」は誠に要を得た救命標語です。津波が来たら、取る物も取り敢えず肉親にも構わずに各自てんでんばらばらに1人で高台へと逃げろーという意味です。
 この標語に基づき津波からの避難訓練を8年間重ねてきた岩手県釜石市内の小中学校では、東日本大震災の時、全児童・生徒計約3千人が即座に避難して生存率99・8%という結果を出して「釜石の奇跡」といわれています。
 東日本大震災から3年後の2014年、東京商工会議所主催の「東日本大震災被災地支援2泊3日の旅行」に私は2回参加しました。訪問した福島県いわき市の機械部品製造会社の社長は「津波の予報が出た時、社員全員を敷地前の小高い山に避難させた。海水はほんの少し来ただけだった。もちろん死者もけが人も出なかった」と当時を振り返っていました。「津波の高さは来てみなければ分からない。絶対安全と思われる所を避難場所と決めていた」とも。指導者の適切な決断がどれだけ大事か痛感した訪問でした。

 パソコンでマピヨン(Mapion)を画面に出して住所を入れると海抜の高さが出ます。私の勤務する印刷会社は東京都品川区西品川1丁目にありマピオンが示す海抜は5mです。20年前の1999年8月、局地的大雨に見舞われ夜中に1階が1m冠水したことがありました。この地域の1番低いところに本社工場があるため周りの高台から一斉に雨水が流れ込んできました。印刷機2台は使用不可になり「電気コードに入った水が乾くまで駄目だ」と機械メーカーの話で15日間印刷機に大きな扇風機を回し続け、水を蒸発させました。メーカーの修理代は800万円、水に濡れて使えなくなった用紙損害額200万円でした。冠水3か月後に品川区から1万円の見舞金をもらいました。

 東日本大震災後、津波除けの防潮堤を浜に作った所があります。何のための防潮堤でしょうか。海近くに住む住民の家屋敷・財産を守るためのようです。自然災害の津波に対抗するのは大変なことです。高い防潮堤を作っても山から流れてくる川はどうしますか。津波は川をさかのぼります。河口に高い鉄の開閉門を作りますか。財産は諦めて住民の命さえ助かれば、その先は何とかなります。
 岩手県の三陸海岸の漁協で防潮堤建設を拒否したところがあります。理由は「風光明媚な故郷の海の眺めを高い防潮堤でふさぎたくない」というものでした。誠にもっともな組合員の決断です。私はこの漁協の人たちを尊敬します。美しい日本の自然を守りながら住民の安全を図る方法はいくらでもあります。三陸の漁協の人たちの自然を大切にする気持ちに学ぶべきではないでしょうか。
 政府の中央防災会議は最大クラスの南海トラフ地震が発生したら関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸に10mを超える大津波の襲来を想定しています。南海トラフ地震に限らず天災は忘れたころにやってきます。何が起こるか分かりません。自らの命を助けるのは心の準備です。たとえば「津波が来たら高さ10mに駆け上れ」と念仏のように唱えていたらその人はイザという時には10mの高さのある所に避難するでしょう。

過去に私が経験した恐怖の体験

 以下2つは私の水にまつわる恐怖の経験です。
 1、23歳で毎日新聞横浜支局に赴任した1年余りあとの1972年7月、神奈川県西北部の山北地方が集中豪雨に見舞われ酒匂川水系一帯でおびただしい土砂崩壊、土石流が発生しました。丹沢塔ノ岳の総雨量524mmでこの決壊で9人が死亡しました。「昭和47年山北災害」と言われています。
 取材のため支局員5人が古い日産セドリックに乗って山北の山道を進みました。細い道に切り立つ岩肌から雨水が噴出していました。今にも崩れてきそうな崖に私は「崩れてきたらお仕舞いだ」と恐怖におののきました。酒匂川中流の広い川岸に下りてきて驚きました。黒い濁流が「ゴツン、ゴトン」とにぶい音を立てながら流れているのです。大きな岩、流木がぶつかり合う音です。転がる岩と流木の中では動物はミンチ状態になってしまうと思いました。
 水害の土石流は泥が混じっているよりも大石、破断された大きな木がこすれ合う流れであることを知りました。それ以来、土石流と化した川はとても泳ぎ渡ることはできない地獄であると考えるようになりました。

 2、2015年5月30日、神奈川県横浜市の横浜中華街で毎日新聞横浜支局OB会が開かれました。20時23分、小笠原諸島西方沖深さ681㎞を震源とするM8.1の地震が起きました。横浜市は震度4でしたが揺れ方が長周期地震動で何とも不気味でした。
 20人近くいた参加者は「早めに帰った方が良さそうだ」となり散会しました。私は遠い南の海から津波がやって来て横浜中華街が波に飲み込まれる映像が浮かびました。街は帰宅を急ぐ人であふれ電車は止まっており、私は運転再開が遅いJRよりも私鉄を選んで帰宅しました。
 揺れただけで被害は出ませんでしたが、横浜中華街の中華料理店6階の宴会場から非常階段を下りている時の恐怖感は忘れられません。

 「ナンだ。この程度の経験か」と思いでしょうが、私にとっては大変な恐怖の記憶です。いずれも水にまつわるものです。恐怖の記憶があったので私は何とか73歳まで生き延びてこられました。小心者の私にとって津波はあらゆる災害の中で最も恐ろしいものです。是非とも気象庁、内閣官房には災害対策基本法にもどり12種の災害名にある津波を多用してもらいたいです。
 多額の予算を津波防災工事に使うよりも「2011東日本大津波」と津波という災害名をつけて国民の耳元にささやき続け、津波の恐怖の記憶を呼び起こす方が人々が自らの命を助ける行動に素早く移る切っ掛けになるでしょう。

(74歳、1977年毎日新聞東京本社編集局整理本部で退職、現在品川区で印刷業)
以上の文章は2019年2月発行の毎日新聞社OB記者同人誌「ゆうLUCKペン41集」に掲載されたものです。

私について

「仕合わせに生活する」といってもボヤボヤしていたら奈落の底に落ちちゃう。
そこには持って生まれた自己防衛性癖が有る。

1、酒に弱い

 2006年88で死んだ父親が酒がダメだった。週に2回は銀座の安クラブ・バーに通っていた。「よくもマメに行くものだ」と感心していたがウイスキーの水割りを舐めるだけ。
 酒が合わない体質が遺伝し私に恩恵をもたらした。酒を飲もうと思わないのだ。無理に飲むと情緒不安定になり、さらに進むと自己嫌悪になる。これが辛い。飲まないと心身ともに健全でいられる。私には禁酒、断酒という言葉は必要ない。

2、ケチなこと

 お金をチマチマ遣うと気持ちが安定する。2021年96で死んだ母親が一旦握った金は決して手放さなかった。かと言って贅沢する気もない。一緒に食事をしても母がカネを払うことはなかった。
 私が「倒産もせず印刷業2代目として44年間社長をやって来れたのは自分がケチなせいだ」と本気で思っている。
 10年前に業界の旅行でソウルのロッテホテルに2泊した。全然楽しくなかった。日本人の団体ツアーが「ロッテホテルに泊まる旅」の旗を先頭に集団で移動していた。「馬鹿じゃなかろか」と思った。同行の製造業者が帰国した後「もう1泊」と漢江を地下鉄で渡り小さな町の安ホテルに泊まった。目の前のスーパーでパンと牛乳を買って部屋で食べた時は沸々と仕合わせ感に満たされた。

ブログ開設のきっかけ

私は東京都葛飾区亀有で1948.1.7生まれた。
現在74歳。

 品川区で印刷業、足立区で段ボール箱を作っている。
2社とも小さな会社だけれど私自身は経営することで毎日愉快に生活している。

 その仕合わせな日々を2週に1回ブログに載せることにした。