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高齢社長の仕合わせな日々 3 | 2022年4月12日

「2011東日本大津波」と東日本大震災の名称を変更すべきと私は提案いたします

 理由は、東日本大震災の死者1万5,895人の死因別人数は表1の通りです。津波が原因の溺死が90.64%(14,308体)を占めています。地震によると思われる圧死、損傷死、焼死は5.15%(812体)とわずかです。多くの死者を出した直接の原因は地震ではなく津波です。災害名に津波を入れるべきです。
 災害対策基本法では、災害の種類に「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑り」を挙げています。災害名はこの12種の中から死傷者を1番出した原因の災害名にすべきです。

死因死者数(体)比率
1 溺死14,30890.64%
2 圧死・損傷死・その他6674.23%
3 焼死1450.92%
4 不詳6664.22%
15,786
東日本大震災の死因別死者数 (表1)

忘れ去られた災害にしてはならない

 災害は年月を経るにしたがって人々の記憶から消えていきます。50年、100年先にどれほどの人々の記憶に残るでしょうか。忘れ去られた災害になってしまうことを防ぐためにも発生の年を災害名に入れておいた方がいいと思います。
 津波を災害名に織り込むことで人々の心に水の恐怖として残す必要があります。恐怖の記憶が、また発生するであろう津波で失われる人命の数を減らします。「今度津波が起きたらあそこに逃げよう」と心の準備ができていれば即座に行動に移せます。津波の恐怖の記憶こそが津波再発時に自らの命を守る最大の力になります。

 東日本大震災は発生した2011年(平成23年)3月11日(金)の20日後の4月1日に、政府は持ち回り閣議で災害名称を「東日本大震災」とすることを決定し、菅直人内閣総理大臣が記者会見で発表しました。以降、東日本大震災の名称が一般的に使われています。津波で大きな災害が出たら、まず ①がれきの撤去 ②名称を決め全国民が復旧に力を集中する―手順が言われています。この場合あまり長い名称ですと繰り返し使うにあたって不便です。

 私は2018年10月、東日本大震災の命名の道筋を知りたいため国土交通省外局の気象庁に電話を入れました。係官は「それは総務省の管轄だ」との話に総務省消防庁に電話をしたら「内閣官房で東日本大震災と決めて閣議に上げたはずだ」との回答でした。内閣官房の話では「なにぶん7年前のことで、はっきりしたことは分からない」という回答しかもらえませんでした。私の取材能力ではこれが限界です。ただ言えることは気象庁、消防庁がつけた東日本大震災の名称は「平成23年東北地方太平洋沖地震」であると言明していました。更に「平成23年東北地方太平洋沖地震の名称は今後変更する予定はない」と両庁とも述べていました。これには津波という言葉は入っていません。

 気象庁係官は「気象庁、総務省のつけた災害名と内閣官房のつけた名称は全く別物だ。関連性はない」とのことでした。
 気象庁のホームページに載っている戦後の顕著な65の災害(表2、表3)の名称には津波という文字は昭和35年のチリ地震津波ただ1つしかありません。その他は豪雨、豪雪、地震、噴火の災害名がつけられています。津波が使われていない理由を気象庁係官に聞いたところ「地震の中に地震と津波の災害名がワンセットに入っている。○○地震とあれば津波が含まれている」との説明でした。

 さらに「台風も豪雨とワンセットにしている」と。確かに気象庁が名称を定めた気象現象(表3)では沖永良部台風(1977年9月9日)以降は気象庁によって命名された台風はありません。△△豪雨の中に台風が含まれているそうです。「国民にとって最も身近な災害の台風を使わないのはまずいのではないか」と言ったら「確かにその通りで、2018年8月から災害名に台風を使うようになった」と係官。「そうであるなら最も多くの死者を出す可能性のある津波は地震から分離して明確な災害名として使うべきではないか」と私が言うと「そういうご意見もあったことを伝えておく」係官で話は終わりました。
 日本は世界でも指折りの津波多発国です。TUNAMIは世界共通用語になっています。日本はじめ142か国が提案して2015年12月の第70回国連総会本会議で11月5日を「世界津波の日」として制定されました。11月5日は安政元年(1854年)11月5日に和歌山県で起きた大津波の際に,村人が自らの収穫した稲むらに火をつけることで早期に警報を発し避難させたことにより村民の命を救った「稲むらの火」の物語に由来しています。

 津波を災害名として多用すべきです。地震速報の後に必ず「この地震による津波の心配はありません」「津波注意報」などが出ます。これは日本人が最初の地震よりも2次災害の津波の方に関心があるからです。地震後「津波の心配はありません」をテレビやラジオで知って人々の心配は1件落着です。
 6,434人の死者を出した阪神淡路大震災(1995=平成7年=.1.17)は各報道機関によって関西大震災、神戸大地震などの名称がいち早く使われた後、発生29日目の2月14日に阪神淡路大震災の名称が閣議で了承されました。強震による死者が大部分を占める災害でした。災害対策基本法の12種の災害名の中から大震災ではなくて阪神淡路大地震と命名した方が人々にとって分かりやすい記憶として残るのではないでしょうか。

 東日本大震災8か月後の2011年11月、まだ余震で揺れ続けていた宮城県仙台市で開かれたシンポジウム「1611年慶長奥州地震・津波を読み直す」の発表で蝦名裕一東北大学東北アジア研究センター教育研究支援者の使った表(表4)があります。蝦名支援者は東日本大震災が、未曽有、想定外、1000年に1度と言われていることに「本当に未曾有であったのか」と疑問を呈しています。

 慶長大津波は伊達政宗(1567-1636)が初代藩主として仙台藩を治めていたときに発生した災害です。津波で塩分を含んだ海水が浸み込んだ仙台平野でのコメの生産を一旦は諦めた政宗は意外と早くコメができることを知り、一層コメの生産を奨励し大津波被害をもろに受けた仙台平野を江戸への最大コメ供給地に変貌させました。表4を見ると東北地方を襲った津波の歴史がまざまざと分かります。多くの人々の命を奪った災害は津波です。大震災ではありません。
 50年前私が21歳の頃、仙台市唯一の海水浴場・深沼でのんびり海水浴を何回か楽しみました。仙台平野のクロマツの林の中に氷の旗がひらめき、小さな神社では子供の歓声が聞こえていました。このような風景は東日本大震災直前まであったことでしょう。当時私は慶長大津波のことなど全く知りませんでした。深沼のある仙台市若林区の南隣の名取市閖上(ゆりあげ)出身の私がとてもお世話になった老婦人は「実家の家、親戚、墓もみんな無くなってしまった」とすっかり肩を落としていました。思い返してみてその時私が深沼の津波の現場にいたら、やはり波にのまれ溺死していたでしょう。仙台平野(写真)は行けども行けども平らな田畑が続きます。東日本大震災では海岸線から内陸4㎞まで津波が行きました。沿岸を南北に貫く高速道路、仙台東部道路は周辺より7~10m高い盛土で造られているためここに避難した230人が命を取り留めました。それ以来高速道路が有効な避難場所として注目されるようになりました。

仙台市5行政区の中で1番東南にある若林区の田畑。右は太平洋、海岸上方が深沼海水浴場。左に仙台平野が広がる。左上隅に小さく見えるのが仙台東部道路

 大切な命を守るために

 広大な仙台平野は、所々に高さ20mの土塁を作ってはどうでしょうか。堅牢な鉄骨や鉄筋コンクリートの構造物でもいいでしょう。数千の住民を一時的に収容できる「津波避難場所」と銘打って避難経路を確定して置く必要があります。避難者の長期滞在は必要ありません。津波が引くまでの短い時間を土塁か建造物の上に多くの人が一時避難できればいいのです。土塁か建造物は平時は住民のための利用施設とすれば建設に使うお金は無駄にはなりません。スーパーマーケットの建物でも立派に住民の命を守ってくれます。
 ここで思うことは、第1に津波の過去の事実を繰り返し繰り返し伝える必要性です。第2に津波が来た時の避難場所を決めておくことです。1990年に岩手県田老町で開催された第1回全国沿岸市町村津波サミットで提唱された「津波てんでんこ」は誠に要を得た救命標語です。津波が来たら、取る物も取り敢えず肉親にも構わずに各自てんでんばらばらに1人で高台へと逃げろーという意味です。
 この標語に基づき津波からの避難訓練を8年間重ねてきた岩手県釜石市内の小中学校では、東日本大震災の時、全児童・生徒計約3千人が即座に避難して生存率99・8%という結果を出して「釜石の奇跡」といわれています。
 東日本大震災から3年後の2014年、東京商工会議所主催の「東日本大震災被災地支援2泊3日の旅行」に私は2回参加しました。訪問した福島県いわき市の機械部品製造会社の社長は「津波の予報が出た時、社員全員を敷地前の小高い山に避難させた。海水はほんの少し来ただけだった。もちろん死者もけが人も出なかった」と当時を振り返っていました。「津波の高さは来てみなければ分からない。絶対安全と思われる所を避難場所と決めていた」とも。指導者の適切な決断がどれだけ大事か痛感した訪問でした。

 パソコンでマピヨン(Mapion)を画面に出して住所を入れると海抜の高さが出ます。私の勤務する印刷会社は東京都品川区西品川1丁目にありマピオンが示す海抜は5mです。20年前の1999年8月、局地的大雨に見舞われ夜中に1階が1m冠水したことがありました。この地域の1番低いところに本社工場があるため周りの高台から一斉に雨水が流れ込んできました。印刷機2台は使用不可になり「電気コードに入った水が乾くまで駄目だ」と機械メーカーの話で15日間印刷機に大きな扇風機を回し続け、水を蒸発させました。メーカーの修理代は800万円、水に濡れて使えなくなった用紙損害額200万円でした。冠水3か月後に品川区から1万円の見舞金をもらいました。

 東日本大震災後、津波除けの防潮堤を浜に作った所があります。何のための防潮堤でしょうか。海近くに住む住民の家屋敷・財産を守るためのようです。自然災害の津波に対抗するのは大変なことです。高い防潮堤を作っても山から流れてくる川はどうしますか。津波は川をさかのぼります。河口に高い鉄の開閉門を作りますか。財産は諦めて住民の命さえ助かれば、その先は何とかなります。
 岩手県の三陸海岸の漁協で防潮堤建設を拒否したところがあります。理由は「風光明媚な故郷の海の眺めを高い防潮堤でふさぎたくない」というものでした。誠にもっともな組合員の決断です。私はこの漁協の人たちを尊敬します。美しい日本の自然を守りながら住民の安全を図る方法はいくらでもあります。三陸の漁協の人たちの自然を大切にする気持ちに学ぶべきではないでしょうか。
 政府の中央防災会議は最大クラスの南海トラフ地震が発生したら関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸に10mを超える大津波の襲来を想定しています。南海トラフ地震に限らず天災は忘れたころにやってきます。何が起こるか分かりません。自らの命を助けるのは心の準備です。たとえば「津波が来たら高さ10mに駆け上れ」と念仏のように唱えていたらその人はイザという時には10mの高さのある所に避難するでしょう。

過去に私が経験した恐怖の体験

 以下2つは私の水にまつわる恐怖の経験です。
 1、23歳で毎日新聞横浜支局に赴任した1年余りあとの1972年7月、神奈川県西北部の山北地方が集中豪雨に見舞われ酒匂川水系一帯でおびただしい土砂崩壊、土石流が発生しました。丹沢塔ノ岳の総雨量524mmでこの決壊で9人が死亡しました。「昭和47年山北災害」と言われています。
 取材のため支局員5人が古い日産セドリックに乗って山北の山道を進みました。細い道に切り立つ岩肌から雨水が噴出していました。今にも崩れてきそうな崖に私は「崩れてきたらお仕舞いだ」と恐怖におののきました。酒匂川中流の広い川岸に下りてきて驚きました。黒い濁流が「ゴツン、ゴトン」とにぶい音を立てながら流れているのです。大きな岩、流木がぶつかり合う音です。転がる岩と流木の中では動物はミンチ状態になってしまうと思いました。
 水害の土石流は泥が混じっているよりも大石、破断された大きな木がこすれ合う流れであることを知りました。それ以来、土石流と化した川はとても泳ぎ渡ることはできない地獄であると考えるようになりました。

 2、2015年5月30日、神奈川県横浜市の横浜中華街で毎日新聞横浜支局OB会が開かれました。20時23分、小笠原諸島西方沖深さ681㎞を震源とするM8.1の地震が起きました。横浜市は震度4でしたが揺れ方が長周期地震動で何とも不気味でした。
 20人近くいた参加者は「早めに帰った方が良さそうだ」となり散会しました。私は遠い南の海から津波がやって来て横浜中華街が波に飲み込まれる映像が浮かびました。街は帰宅を急ぐ人であふれ電車は止まっており、私は運転再開が遅いJRよりも私鉄を選んで帰宅しました。
 揺れただけで被害は出ませんでしたが、横浜中華街の中華料理店6階の宴会場から非常階段を下りている時の恐怖感は忘れられません。

 「ナンだ。この程度の経験か」と思いでしょうが、私にとっては大変な恐怖の記憶です。いずれも水にまつわるものです。恐怖の記憶があったので私は何とか73歳まで生き延びてこられました。小心者の私にとって津波はあらゆる災害の中で最も恐ろしいものです。是非とも気象庁、内閣官房には災害対策基本法にもどり12種の災害名にある津波を多用してもらいたいです。
 多額の予算を津波防災工事に使うよりも「2011東日本大津波」と津波という災害名をつけて国民の耳元にささやき続け、津波の恐怖の記憶を呼び起こす方が人々が自らの命を助ける行動に素早く移る切っ掛けになるでしょう。

(74歳、1977年毎日新聞東京本社編集局整理本部で退職、現在品川区で印刷業)
以上の文章は2019年2月発行の毎日新聞社OB記者同人誌「ゆうLUCKペン41集」に掲載されたものです。